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糸引納豆と八幡太郎義家との関係は、義家が奥州平定に北上したとみられる道筋には今日でも伝説として、馬糧大豆の中から糸引き納豆を発見したと伝えられているが、本県においても、1083年、八幡太郎義家が10万の兵を率いて奥州征伐に向かう途中、常陸国の頃、王朝時代の官道の道筋である那珂郡河内に駅家があり、その駅長である水戸郊外渡里の里の一盛長者の所に泊まったとき、馬の飼料に通っ田煮豆の残りを、わらに包んだところ自然に醗酵して糸を引くようになり、たまたま家来が食べたら、香気があり、美味であったので義家に献じた。以来将軍に収めた豆という意味で、納豆と名づけ、その製法が農家に伝承されてきた。

これが、後年福島に伝わり、会津納豆となり、水戸納豆、会津納豆が、江戸人の嗜好に適したので、江戸納豆と証するにいたった。

しかし、八幡太郎云々も、昭和の時代でつい10年前まで、中部以西の県で、糸引き納豆を腐った納豆と判定して、廃棄した事実を考えると、その当時果たして、兵士を初め、義家が食べたかどうか疑問に思われるし、もし食べたとしたら、最初のひとはよほど勇気のある人と思われるが伝説は伝説なりに本県等の業者等は、これを信じ、茨城が納豆の本家であるという、誇りと自身を持って製造し、今日に至っている。

水戸納豆用大豆が極小粒である由来は、1723年ごろより水戸藩は、那珂川の氾濫による水害が多く、その流域の農民は、台風シーズン前に早くでき、水害の泥土に強い菜に毛のない、所謂「水カブリ」、県産「地塚原種」の栽培、また鹿島の砂地、久慈の山地、石塚地方の圷等の土地の痩せたところにしか成育しない、小粒の生娘、小娘、地塚等の種類を栽培せざるを得なかった。

これらの極小粒の大豆は、豆腐、味噌等の製造には不適当で、納豆用にしか適用できず、自然の厳しい条件のもとでの、貧しい農民が、やむにやまれぬ状況の元に改良した大豆が、今日の茨城の小粒大豆であり、由来にも一抹のあわれさがある。